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GAPの始まりと歴史

今までフランスを代表するブランド、イタリアを代表するブランドの歴史を紹介してきましたが、今回はアメリカにスポットを当てたいと思います。
 
アメリカを代表するブランドと言えば、ティファニー、ハリーウィンストンといった高級宝石商が誰もが憧れる有名なメゾンが挙げられますよね。その他にマイケル・コース、トミーヒルフィガーといったブランドもありますが、今回は日本でもファストファッションの代表格としてお馴染みのGAP(ギャップ)の歴史を紹介したいと思います。

また、アメリカファッションの歴史にも少し触れたいと思います。 まずはGAPブランドの始まりから。 GAPは1969年、アメリカのサンフランシスコでジーンズ専門店として設立しました。 世界中で約4000店を持つ非常にグローバルなブランドで、企画、生産、販売まで一貫して行うのが特徴です。


GAPの他に、オールド・ネイビーとバナナリパブリックといったブランドを展開しています。 創業は、1969年、アメリカ、サンフランシスコのジーンズ専門店(リーバイスなども取り扱った)を始めたところにあります。創業者はドナルド・フィッシャー(Donald Fisher)。成長に伴い、衣服、アクセサリー、子供服としてラインナップを増やしていき今のかたちになりました。


ファッション


GAPのコンセプトは「クリーン、オールアメリカン、シンプル、グッドデザイン」で、基本は、トレンドに左右されないベーシックなデザインにありますが、時代の流れ、シーズンによりトレンドを取り入れながらデザイン性の高い製品も展開しています。

GAPの成長はライフスタイル提案型の展開にあるのが特徴といえます。コマーシャルにはミュージシャン、ダンサーなどを起用して、GAPの製品を超えた、ライフスタイル、着ることへの楽しみなど、イメージに訴えたCMや広告を展開。日本でも山手線を丸々ジャックした目立つ広告は見たことがある人も多いはず。ボブディランもCMでコラボレーションしました。

さらにGAPはファッション業界のシステムに、一つの流れを作り出しました。それは、デザイン、製造、物流、販売、マーケティングを自社で一貫して行うもので、このような製造販売のスタイルはSPA型の運営という一つの流れを作り出したのです。この手法で、世界で統一したイメージを作り出し、ライフスタイルの提案をより強固なものとしました。 同様の手法をとるブランドが、スウェーデンのH&M、日本のユニクロ、スペインのZARA、イギリスのトップショップなどにあたります。今ではハイブランドをしのぐほどのファストファッションと呼ばれるメーカーの先駆けがGAPなのですね。


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では、GAPを生み出したアメリカのファッションに注目してみましょう。

30年代以前のアメリカファッションの主流はパリのオートクチュールのコピー品であり、依然としてパリがアメリカでも強い影響力を持っていました。

1930年代あたりから、アメリカは徐々に自国のファッション、アメリカンスタイルを意識するようになります。 ただ、クリスチャンディオールのニュールックがアメリカでも話題になったように、すぐに移行した訳ではなくパリの影響を受けながらも、アメリカ流の要素を加えるなど、30年代から40年代にかけて、アメリカのスタイルを意識したファッションへと変わっていきます。 そもそも、なぜアメリカンファッションへの移行を意識するようになったのか、変化の背景を見てみましょう。

20世紀初頭から産業合理化、既製服化の動きがすでに起こっていました。この動きの中で、仕立てを前提としたファッションデザインではなく、機械生産を前提とした、量産型のファッションの流れがありました。(デザインもシンプル化します。)
 
30年代からは、ファシズムや共産主義などのイデオロギーが主張される中、アメリカは民主主義を強く強調する必要があり、国としてさまざまな分野のアイデンティティを主張する必要がありました。その一つがライフスタイルであり、ファッションへと影響したのです。国家的なレベルで、アメリカ流のライフスタイル、アメリカ流のファッションが求められていたのです。

また40年代の第二次世界大戦も女性のファッションに大きな影響を与えます。それは中流階級でも、女性が労働をすることが当たり前となり、衣服にも「動き」が求められるようになったからです。このような流れは戦後のアメリカのカジュアルなファッションへと繋がります。 その他、戦時中で言えば、パリのモードが機能していなかったため、アメリカは独自でファッションを作っていかなければいけなかったという要因もあげられるでしょう。


ファッション
 

30年代あたりから百貨店・小売店はアメリカのデザイナーや製品を強く打ち出すようになります。
この流れの中で「アメリカンルック」という言葉が生まれ、このシンボルとして取り上げられたのが、当時最も活躍していたデザイナー、クレア・マッカーデルでした。 クレア・マッカーデルが打ち出したスタイルはスポーツウェア(カジュアルウェア)をベースにした、シンプルかつ性能製の高いファッション。

彼女はヴィオネの影響を受け、バイアスカットを使用した、着心地の良いデザインを追及します。 このようなスタイルの普及にはハリウッド映画も大きく貢献しました。


30年代に活躍した女優、ジョーン・クロフォード、グレタ・ガルボ、キャサリン・ヘップバーンなどが大きな影響を与えます。
マッカーデルはこの時代、衣服の上下が分かれているセパレーツや、キッチンディナードレス(料理ができて来客にも対応できる服)、デニムを使用した服の上からはおるドレスポップのオーバー、ジャージー素材を用いたハイウエストでルーズなベビードールドレス、バレエシューズを日常用の靴に応用したデザインなど、シンプルかつカジュアルなデザインを提案します。


さて、「ジャージー素材を取り入れた」と聞いてピンときませんでしたか?

そうです!

フランスでジャージー素材をいち早く取り入れ、女性をコルセットから開放し活動的なデザインを打ち出した・・・

ココ・シャネルです!


シャネルとマッカーデルの方向性は非常に似ていると言われています。
シャネルが活躍したのが10年代以降。マッカーデルは30年代と時代ははずれていますが、男性用の素材、労働服にインスピレーションを受けている点、スポーツウェア、装飾よりも機能性、シンプル化・・・。
とさまざまな共通点があります。

マッカーデルは20年代、フランス留学の経験があるので、シャネルの影響を少なからず受けているでしょう。


二人の決定的相違点がありました。
それはシャネルはオートクチュールであり、高所得層にフォーカスしたデザインだったのに対して、マッカーデルは既製服を意識し、幅広い層に向けてファッションを発信していた点です。

マッカーデルは既製服の限界・制約の中で、バイアスカットを用いて女性の身体を最大限考慮したデザインを展開しました。 これは60年代に出てくるクレージュとマリークワントのミニスカートに対する考え方の相違点と近しいものがあります。

この相違点こそ、当時のアメリカのライフスタイルから生まれた、アメリカンスタイル、アメリカンウェイの本質を示すものではないでしょうか。パリとアメリカはファッションのスタートラインが全く異なっていたのです。まさにGAPの誕生にもふさわしい背景があったのですね。
 

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グッチの始まりと歴史

前回はフランスを代表する、ココ・シャネルの歴史を紹介しましたが、今回はイタリアを代表するブランド、グッチの歴史に迫りたいと思います。

まず、ブランドの始まりから。 1921年、グッチオ・グッチがフィレンツェのヴィーニャ・ヌォーヴァ通り(7 Via della Vigna Nuova)に旅行鞄や馬具を取り扱う皮革製品店として創業しました。 創業者グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)は1881年、イタリア・フィレンツェ生まれ。彼のコンセプトは「最上の伝統を最上の品質で、しかも過去の良いものを現代に反映させる商品作り」をコンセプトとする。グッチは世界で初めてデザイナーの名前を入れて商品を販売したといわれています。品質保証を示すためです。自らの頭文字をあしらったダブルGのモノグラムは言わずと知れたロゴですよね。今では当たり前の「ブランド名刻印」のはじまりはグッチオ・グッチによるものでした。


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1953年、グッチオの死後、息子アルドが経営の中心となり65年ビットモカシン(グッチといえばこれですね!!)、レディスウェア、70年代に香水を発表し、ブランドのラインナップを増やしましたが、80年代に入ってから、親族間でグッチの運営を巡って血族間闘争に至ります。この影響を受け、グッチのブランドとしての勢いも低迷。闘争の後、グッチオの孫にあたるマウリッツィオの手に渡ることとなります。

グッチの代表作ビットモカシン。この靴は革製品の1ブランドから服飾品全般のラグジュアリーブランドへと大変貌する、同社の方向性を決定付けた商品とも言えます。なぜなら商品の着眼点も時流を先読みした、極めて鋭いものだったから。この靴は明らかに、第二次大戦前後からアメリカの大学生を中心に人気の出だしたローファーをベースにしたもの。

その甲部に例の金具をあしらうことで贅沢さを漂わせ「大人の男性が履いても、子供っぽく見えないカジュアルスリッポン」なる新たなカテゴリーを創造し、言わば「ローファー卒業生」の受け皿を提供したのです。そう、新しいもの好きのアメリカで受けるべくして受けた靴ということです。 グッチはブランド戦略に長けていたというのは言うまでもありませんね。


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血族間闘争後、マウリッツィオは復活を目指し奮闘します。89年グッチ復興を願って当時、バーグドルフグッドマンの女性社長だったドーン・メロウをクリエイティブ・ディレクター兼副社長として招きます。彼女はジェフリー・ビーンのデザインチームにいたリチャード・ランバートソンを採用。
 
90年、マーク・ジェイコブスが率いるペリー・エリスで同社のブリッジラインにてスポーツウェア(カジュアルウェア)をデザインしていたトム・フォードをレディスのデザイナーに採用。彼は、ほとんど一人でウェア、アクセサリー、ギフトなど、グッチの11にも及ぶラインのデザインを手がけ、いずれもコレクションは好評を博し、グッチを復活の兆しを見せ始めました。


フォードは、マウリッツィオから指示されていたエレガンスなクラシック路線ではなく、モードを打ち出し、やがて、そのデザインは人気を集め始めます。93年には2億ドルだった売り上げは99年には12億ドルまで拡大。 99年、LVMHの敵対的買収を避けて、フランスの流通大手PPR社の傘下に入ります。 経営手腕もあり、グッチは急速に事業を拡大させていきます。1999年、セルジオ・ロッシを買収。2000年、宝飾メーカー、ブシュロンとイヴ・サンローランを買収。2001年、アレキサンダー・マックイーンの株式の51%を獲得。その後、バレンシアガの株式資本の91%を所有し、次々にグッチの傘下におさめていきます。また同時期に、皮革メーカーだったボッテガ・ヴェネタを買収。2002年には、グッチグループからステラ・マッカートニーがデビュー。


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2001年、トム・フォードがイヴ・サンローランリヴ・ゴーシュのデザイナーにも就任しグッチと兼任するなど、フォードとデ・ソーレは影響力をフルに発揮しました。

約10年間に渡る大活躍のデ・ソーレとフォードだったが、2004年4月30日付で退任したのは記憶にあるかと思います。ブランド・コントロールの問題で親会社PPRと対立したのが原因と言われる。 2004年5月より、フォードの後任として、レディースウェアラインのクリエイティヴ・ディレクターに、アレッサンドラ・ファキネッティが就任。尚、メンズウェアラインはジョン・レイが、アクセサリーラインはフリーダ・ジャンニーニが担当しました。   2005年、ファキネッティが、方針を巡る意見の相違を理由にレディースウェアのクリエイティヴ・ディレクターを辞任。後任にジャンニーニが就任。


2006年ジョン・レイがメンズウェアのクリエイティヴ・ディレクターを辞任。このときも後任には、ジャンニーニが就任し、結局、ジャンニーニが、グッチのレディース・メンズライン、アクセサリーラインをすべて努めることとになりました。 フリーダ・ジャンニーニの、セクシーさの中にフェミニンな要素が含まれるファッションは、好評で、コレクションの時の彼女のファッションまで話題になっています。
 

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シャネルの歴史

この記事を読んでくださっている方は、少なくともファッションに興味のある方だと思います。

ファッションブランドといっても、海外メーカー、日本国内メーカー、エルメスやカルティエなどのハイブランド、プレタポルテによる既製服が多く出回るようになった現在は、とにかく目まぐるしく早く新たな流行が次々に生まれてきますよね。 今トレンドのファストファッションもその象徴ですね。
ちょっと日を空けてお店に向かうと、もう違う洋服に総入れ替えしてあったりと、流行に飲み込まれてしまいそうな感覚さえ覚えてしまうほど。それほど現代はファッション情報に溢れ、ファッションへの関心は非常に高いのです。


皆さんは好きなブランド、憧れのブランドはありますか?私はつい最近ココ・シャネルの半生を描いた本を読み、映画も見たところなので、いまいちど女性が今の軽やかなファッションでいられるようになったキッカケともなった、シャネルの歴史を追ってみたいと思います。


かの有名なシャネルは1909年、ガブリエル・シャネル(通称、ココシャネル)によって設立されました。



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●シャネルについて
シャネルの創立者、ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)は1883年、フランスに生まれました。父は行商人、母親が他界し、家族は方々に散り、シャネルと姉は孤児院に預けられ、アメリカに渡った父を「いつか私たちを迎えにきてくれる」と信じ、修道院で育ちました。まるで小公女のようですよね。 ただ、純粋に父を待ち続けたのは姉でガブリエル自身は、決して迎えにこないこと感づいていたのか、少女の頃から私は私で食べていかなければならない、そのためにどうしたら良いかととてもハングリー精神の持ち主でもあったのです。現代の女性であれば、このような考え方を持っている人も多いですが、当時ではとても珍しいことですよね。やはり大きな事を成し遂げる人物は強い考えを持っていますね。




シャネルの打ち出すファッションは、モノトーンな色が中心ですが、それは修道院で黒などべーショックな服を着用していたからと言われているようです。シャネルは修道院の規律正しい生活の中で、お針子としての技術を身につけました。
 

1905年、踊り子(歌手)を目指しキャバレーで歌う仕事に就きます。美しさも兼ね備えたシャネルは、店の人気者となり、ミドルネーム、ココと呼ばれて親しまれました。これがココ・シャネル(CC)の由来で、有名なモノグラムに繋がります。

そして歌手をした時期に出会った、ブルジョワ出身の青年将校の愛人となり、その青年将校の出資で、1909年に帽子店を開業。その後もシャネルはブランドの初期段階で、恋人から出資を受けて事業を拡大していきます。 装飾が多い帽子の多い中、シャネルのシンプルなデザインは多くの注目を集めました。社交界の女性たちからオーダーが入るようになり、帽子から衣服など徐々に展開を広げていきました。 過去の成功したデザイナーは皇室、女優などの影響力を利用して自身のスタイルを打ち出すことが多かったのですが、シャネルの場合は、その美貌とカリスマ性で自分自身がブランドの広告塔となりました。今では当たり前のように聞こえますが、当時とても斬新かつ効果的なPR法だったといえます。
 

シャネルの影響力が大きいのは、そのスタイルが評価されたことだけでなく、彼女自身が女性として持っていたカリスマ性や、その生き方、活動的な性格からくるものからだったのでしょう。 1919年、クチュリエとしてオートクチュールのコレクションを発表。シックで着心地の良さを追求し、シンプル&エレガンスを追求します。そのシンプルさは、彼女の考える女性の解放であり、女性のスタイルでもありました。



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シャネルは「コルセットから解放した」といわれているのは有名ですね。
ですが実はシャネル以前にポール・ポワレ、ランバンなどがすでに始めていて、シャネルが先陣をきったわけではないそうです。ただ、機能的な側面を考えると、シャネルの功績はとても大きく、そのファッション哲学は女性の社会進出の先駆けとなりました。
 

例として、身軽で動きやすい服を求めて男性用の下着に使われていたジャージー素材にを取り入れたり、紳士ものであるツイード素材を女性用スーツに仕立て、女性がパンツを履くなどのスタイルを提案しました。 シャネルはまた、喪服でしかなかった黒をファッションの色として取り入れます。

このことに関して、「きらきらした衣装を作るのは簡単でも、リトルブラックドレスを作るのは難しい」と語っています。その他、ベージュ色を好み、「本当の大地の色」として、ジャージのスーツに織り込みました。女性にとってとても機能的で動きやすく、かつ上品で美しいシルエットは今のシャネルの原点でもあるのですね。



1921年、あまりにも有名なオードゥ・パルファム「NO.5」が登場。名前の由来は、番号が付けられた実験ボトルが並ぶ研究室で、シャネルが5番目のサンプルを取り上げ「これにするわ」と言ったため、となんともシンプルな理由でした。服飾ブランドが香水をリリースしたことは大変珍しいことでしたが、高価すぎるオートクチュールなど服飾ブランドから、手の出しやすい比較的安価な香水や化粧品をリリースし、ブランド顧客にするという手法は現在ではいたるブランドが行っていることです。
 


シャネルはスーツを中心に、1964年A/Wの「パンタロン・ルック」などシンプルで着易い服を提案しました。戦前のころと同様の、黒のテーラードスーツをメインにしたコレクションを発表。当時パリのジャーナリストからは「変わらないシャネル」と評価は良くはありませんでしたが、現在でも愛されるテーラードスーツを代表としたシャネルのデザインは「変わらない」からこそ愛され続けているのかもしれません。

1971年に、住居としていたパリのホテル・リッツにて、87歳でこの世を去りました。なんと驚くことにコレクションの準備中、とまさに働きどおしのファッションに身をささげた人生でした。
 
シャネルの死後、ドイツ人ファッション・デザイナーのカール・ラガーフェルドがデザインを担当し、その意思は現在にまでも引き継がれています。
 

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ファッションブックの歴史

現在、書店や売店、コンビニでは数多くの雑誌が並んでいますが、皆さんはどんな雑誌を読んでいますか?

ファッション誌、ビジネス誌、旅行ガイド誌、園芸やギャンブル、ダイビング…挙げたらキリがないほど雑誌だけでも情報で溢れています。 ファッション誌でも、様々なテイストの雑誌で溢れています。

ミス・ミセス向け、ストリートファッション、モード、若い世代向けのギャル雑誌、サーフファッションやB系、さらには子供服のみの雑誌…と「ファッション」とひとことでくくるのには多すぎる程のスタイルがありますよね。
 
現在出回っているファッション誌はターゲットを細かくセグメントし、そのセグメントされた層にのみ提供する情報を載せるため、数多くの雑誌が存在するのでしょう。 今日は数多く存在するファッションブックを西洋、日本から見た歴史や位置づけをご紹介したいと思います。


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まずはファッションブックの意味から。ファッションを伝える冊子類の総称。一般にはファッション雑誌、fashion magazineあるいはモード雑誌ともいいます。

類語にパターン・ブック、スタイル・ブックなどがあります。パターン・ブックは「デザイン(または型、柄)見本帳」、スタイル・ブックはさまざまな「(服装の)型を図示した本」ということですが、後者は元来、印刷活字の見本帳を意味していたものを、服装その他でも借用するようになったようです。
 
現在のファッション雑誌は、読者の恋愛事情のアンケート、人間関係のQ&Aコーナーや、「恋愛特集」「モテ特集」、星占いや血液型性格分類等の「占い特集」、漫画、ダイエット、キャリアアップ、金銭管理、料理レシピを掲載する、また近年は付録をサービスするなど、読者の関心をひきつけるエンタテイメント要素を盛り込んでいるものが多いですが、本来は「見本帳」の要素が色濃かったのです。 ではファッションブックの歴史を見てみましょう。


●西洋
ファッションブックが他雑誌と異なる点は、「絵や写真や図」がメインであること。つまり服飾では媒体の主体が形そのものに置かれているため、ファッションブックの発達は版画や印刷術の発達と同時であったということです。現代のようにPCでつくったデータを印刷所に投げれば雑誌ができあがるというわけではありません。版を手作業でつくることがファッションブックをつくる過程の一つということです。今発行されている分厚いファッションブックをつくるとなると、気が遠くなりそうですね・・・。
 

服装版画に類する刊本が現れ始めるのはルネサンス期で、木版画・エッチングの手法によって当時の服装を記録したもので、17世紀初頭まで続きました。この期はコスチュームブック期と呼ばれています。 この後、17世紀からの1世紀余りをコスチュームプレート期、さらには両者あわせてファッションブック成立の「準備時代」と呼ぶそうです。この時期多くの優れた版画家が輩出しました。


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18世紀も70年代になると、モードの伝達を意図したプレートが現れ、やがてそれを挿入した「女性向けの総合雑誌」へと発展します。ようやく現代のファッション誌に一歩近づきましたね。この時期はファッションブックの「成立時代」であると同時にファッションプレート期と呼ばれています。

この時期に出回っていたファッションブックは、
『ザ・レディズ・マガジン』The Lady's Magazine 1770~1837(イギリス)
『ギャルリー・デ・モード』Galerie des Modes 1777~1787(フランス)
『プティ・クーリエ・デ・ダーム』Petit Courrier des Dames 1822~1865(フランス)

とくにファッションブック「成立時代」後期はすばらしいファッションブックが続々と刊行されました。
代表的なものには、
『モニトゥール・ド・ラ・モード』Moniteur de la Mode 1843~1910(フランス)
『ザ・クィーン』The Queen 1861~1940(イギリス)
『ル・サロン・ド・ラ・モード』Le Salon de la Mode 1876~1940(フランス)

ブックタイトルに「モード」という言葉も使われ始めた事からも、内容が段々と現代のファッション誌のようにモード性重視になってきたことがうかがえます。
 
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続いて20世紀に入ると、ファッションブックは次第に近代的な写真版印刷に変容し、一度に大量印刷されるようになりました。この時期はファッションブックの「発展時期」と呼ばれます。

20世紀初頭からおよそ第二次世界大戦までの前期はモノクロの写真版印刷の時代であると同時に三色版印刷の時代でもあります。 後期はカラー写真版印刷時代。
この時期を代表するファッションブックは 19世紀末に創刊された、『ハーパーズ・バザー』Harper's Bazaar 1867~ (アメリカ)『ヴォーグ』Vogue 1893~ (アメリカ、フランス、イギリス)ちなみに『ヴォーグ』はこの時期、2週おきに発行していたそうです。


●日本
次に日本でのファッションブックの成長ですが、1975年頃まではスタイルブックと呼ばれていました。(ここではあえてファッションブックと呼ばせてもらいますね。)

初のファッションブック創刊は『婦人画報』です。(1905年)
初のファッションブックは1934年創刊の『服装文化』です。国木田独歩を初代編集長として創刊された、日本で最も歴史ある婦人総合誌。婦人画報は出版社としてもあまりにも有名ですね。
 
その後1934年『服装文化』が創刊されます。
36年に『装苑(そうえん)』と改名されました。同誌は当時洋裁の専門誌で、日本のファッション誌の草分け的存在とも言われています。 そして続々とファッションブックが登場します。 代表的なのを挙げてみます。

『MEN'S CLUB』1954年  本初の男性ファッション雑誌
『non-no』1971年   旅行特集で前年創刊の『anan(アンアン)』とともにアンノン族現象を引き起こしました。 『POPEYE』1971年 従来の男性誌と一線を画す、カタログ風の実践的内容でした。
『JJ』1975年 ニュートラが全国的に流行のキッカケとなりました。

今でも読者の多い有名なファッション誌ですね。 「ファッション」の語が単独で「服飾」の同義語として定着するのは1970年代以降のことであり、70~80年代はその全盛期となって一般女性誌はもちろん、週刊誌までがファッションを取り扱うようになりました。いわばファッションが定着したのは割と最近なんですね。

一方90年代に入ると、バブル経済の余波を受け、一時期沈滞はするものの、21世紀に向かうにつれ落ち着きをみせ、近来は『エル』『ヴォーグ』といった国際誌の日本語版が一般書店でも販売されるに至りました。
 

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流行あれこれ《ハ~マ》

≪ハ行≫


●ファッションデザイナー(a fashion designer)
服飾・ファッション分野のデザインを専門とする人を指します。自分の名前でブランドが確立されている人だけでないのは勿論のこと、企業専属の人、インディーズの人、フリーの人などその仕事状態は様々です。基本的にスタイル、色などのイメージを考え、具体的なデザイン画にまとめるまでの仕事をしています。そして、そのデザイン画を型紙におこしていくのがパタンナーです。

ただし、これといった仕事の流れが決まっているわけではないので、デザインのイメージだけを考え、実際にデザイン画にするのは助手(モデリスト)にまかせる人もいれば、デザインから素材の選択、裁断、ミシンがけまですべてやっている人もいます。 注文服(クチュール)のデザイナーは、ミシンがけから仕上げまで、自分で、あるいは直接人を指導しておこなうのがふつうです。着る人の個性を尊重し、その意見も取り込みながらデザインを決め、仮縫いをして、着る人それぞれに合った服を仕上げていきます。既製服(アパレル)の場合は、デザイナーが製品になるまで責任をもってチェックすることもありますが、大概は組織の仕事の一部としてデザインを担当するといったケースが多くあります。 いずれにしても、服が完成するまでの工程をうまくコントロールするとか、最終的な着こなしまでを考えられるファッションセンスと、イメージを的確に表現できるデザイン力が必要な職業です。



●ファッションモデル(fashion model)
ファッションブランドの衣服、装飾品を身に付け、ブランドのイメージとして広告やファッション雑誌の被写体、またファッションショーなどに出演することを職業としているモデルのことを言います。 雇用形態としてはモデル事務所への所属や他のマネージメント会社への所属と言う形になります。雑誌の専属モデルと言われている場合でも、実際は全てマネージメント会社を介しての契約と言うことになります。

ファッションモデルの寿命は5年~10年程度だそうで、その後は女優やタレント、デザイナーなどへ転身をしていくようです。 日本のファッション雑誌では、1990年代以降ストリート系を中心に、プロのモデルではなく街頭スナップや読者モデルを多く取り入れたことがありました。このためモデルの出演料が低下してしまい、プロのモデルが減少するという傾向が見られました。

●フォーマルウェア(a formal dress[suit])
フォーマル(正式の、公式的な)な場で着用する服装の総称。正装。ブラックフォーマルとカラーフォーマルがあり、ブラックフォーマルは黒を中心とした冠婚葬祭などで着用し、カラーフォーマルはパーティの華やかな場所での服装です。定められた衣服を着ることによって、敬意や謙譲の意を表現する事が出来ます。 また、正式な社交服として、イブニングドレス(男女を問わず夜間の社交の場に用いる礼服)などもあります。

ソーシャルウェア(社交服)よりも少し格が上のイメージで、昼間と夜間の区別、正装と準礼装、略礼装の区別、TPOに応じた着こなしなどいろいろとルールがあります。例として、昼間のアフタヌーンドレス、夜間のイブニングドレス、ディナードレスなどがあります。 何が正装に当たるかは文化や状況によって異なります。一般的には19世紀ごろのヨーロッパにおいて確立した服飾意識が全世界的に通用するとされていますが、他民族が集まるような場であっても、その民族固有の衣装のうち礼式にかなったものを着れば礼装としてみなされています。また、参加メンバー、場所、パーティーのランク、主人の社会的な地位や身分などによっても異なったりします。
 


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●プレタポルテ(仏:pret-a-porter)
フランス語でpret(プレ)は「用意が出来ている」、purter(ポルテ)は「着る」という意味になり、a(ア)は不定詞を導く前置詞となります。英語に直訳するとready to wear、あるいは、ready to carryにあたり、「そのまま着られる」「そのまま持ち帰られる」という意味になります。

まとめると「すぐに着られる既製服」ということになるわけですが、一流のデザイナーがデザインを手がけ、仕立てをした既製品にのみ使われます。日本では、フランスの著名デザイナーによる輸入高級既製服というイメージがあったため、単純に「既製服」とは訳さず「高級既製服」と訳されました。

流通としては、オートクチュール(高級注文服、高級オーダーメイド服)は、限られた個人からの注文のみを受け、一点一点手作業で制作した服を顧客に渡すという流れですが、プレタポルテ(高級既製服)は基本的には、卸売から大量受注して小売する流れとなります。 「プレタポルテ」以前の既製服は、既製品という意味を持つコンフェクション(confection)と呼ばれていましたが、これらの言葉が「大量生産された粗悪な安物」というニュアンスを持っていたため、それらと区別するために1945年に「プレタポルテ」という言葉が生まれました。今では、年に2回開催されるファッション・ショーや展示会によって、世界のファッションをリードする立場となっています。



●ベビードールルック
ベビー(baby)ドール(doll)
つまり「赤ちゃん人形」で、子供っぽくあどけない雰囲気、または小悪魔的なイメージを持つ女性や、そういったニュアンスのファッションスタイルを指しています。また、似たような意味でナイトガウンの一種であるベビードールを基調にしたファッションの事もこう言います。 リトルガールルックのひとつで、ルーズウエストでフレアーの入ったゆったりしたワンピースに、フリルやレースの飾りなどを付けたものや、シュミーズを短くしたようなドレスを指します。ルーズなシルエット、ショート丈、衿・胸元・袖のフリルというデザインは基本ですがバリエーションは豊富です。 基本形を作ったデザイナーはクリストバール・バレンシアガ、その後は50年代のマギー・ルフ、80年代のジャン・ポール・ゴルチエ、ヴィヴィアン・ウエストウッド、山本耀司などがロリータ、ベビードールブームを引き起こしました。



●ボディ・コンシャス(body conscious)
略して「ボディコン」(和製英語)です。consciousは「~を意識する」という意味で、ニット素材などを使用し、体にフィットするデザインでボディラインを強調した服で、元々は女性の自己主張、解放を目指すファッションの動きの一つでした。 出始めは1981年のミラノ・コレクションにおいてアズディン・アライアが発表したドレスでした。その後、ピンキー&ダイアンなどが更にシルエットを強調したデザインを発表しました。日本でのブームは1980年代のバブル期で主に遊び着としての流行でした。
 


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≪マ行≫
 


●マニッシュ・ルック(the mannish look)
マニッシュとは「男のような、男気取りの」の意味で、マスキュリン・ルック(masculine look「男性的な」)とも言われます。フェミニンと対極にある言葉で、女性のファッションスタイルに関して使います。女性が男性的な装いをすることによって女性らしさを表現するスタイルです。 20世紀初頭から女性の社会進出が増えてきたことにより確立されました。 テーラード・スーツのような細身のパンツ、ジャケットにシャツやベストを組み合わせネクタイを結んだり、ヘアスタイルもボーイッシュにしたりして、男性と対等に職場で活躍するキャリアウーマンのスタイルとして定着していきました。



●ミニマリズム(minimalism)
最小限(Minimal)と主義(ism)を組み合わせた用語です。1960年代、アメリカから登場した考え方で、ファッションだけでなく造形美術の分野で主流を占めた傾向です。 80年代のゴージャスで豪奢なデザインに対して90年代はシンプルなデザインが流行し、極限までシンプル化させていきました。服から無駄な要素をすべて省き、最小限にすることにより本来人間のもつ感覚を回復させ、内面性を浮かび上がらせようとしました。



●みゆき族
1964年頃に、日本で流行したファッション文化です。 男性はバミューダパンツや「VAN」のジャケットなど、アイビーを崩したスタイル、女性は白いブラウスにフラットな靴、ロングスカート、リボンベルトを後ろ手に締めて、頭にスカーフを巻いたり首にネッカチーフを巻き、紙袋やズダ袋を脇に抱えたスタイルで、銀座のみゆき通りを闊歩していた事が名前の由来です。 「VAN」とはヴァンジャケット社のブランド名で、このロゴが入った紙袋を持って歩くだけでおしゃれだとされ、アイビーファッション信望者の中では神様的存在でありました。 1970年代も人気は衰えず、他には「JUN」などの似たようなアルファベットブランドが増えていきました。



●ミラノコレクション(Milan fashion week)
1976年以来イタリアのミラノで開催されているコレクションです。メンズの「ミラノ・モーダ・ウォーモ」とレディースの「ミラノ・モーダ・ドンナ」がそれぞれ夏と冬に年2回ずつ行われます。 多くのデザイナーが新作を発表する場で、宣伝のためにバイヤーやジャーナリストやカメラマンを招待しますが、ビジネスとしてのコレクションなので一般の人は見ることが出来ません。このコレクションの次の週にパリ・コレクションが行われます。



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